東洋カプセル株式会社 創業者 望月順太郎のあゆみ
太平洋戦争のさなか、順太郎35歳の昭和19年(1944年)に軍隊に召集され、中国へ出征し、上海海軍特別陸戦隊勤務となった。 昭和26年(1951年)、JR東海「身延線」の前身である「富士身延鉄道」が全線開通した。これに伴い、順太郎は生まれ故郷である静岡県富士宮市に「陽泉パルプ工業株式会社」を設立。さらに、信州や甲州のパルプ用材の仕入れ確保のため、長野県北巨摩郡日野春村長坂で「住吉旅館」を営みながら、同県富士見町に「陽泉パルプ工業株式会社」の出張所を開設し、パルプ原料となる用材の仕入れに奔走する日々を送った。以後、昭和39年(1964年)までパルプ工場を経営した。この間、順太郎は富士宮市の市議会議員を務めている。 |
![]() 次の事業を考察した末、小資本、少人数で起業でき、受託加工技術で成算があるとして医薬品カプセル事業に着目した。 昭和43年(1968年)2月、順太郎はパルプ事業当時から勤務していた所縁の方たちを迎え、現在の本社所在地(富士宮市中里東町)に「東洋カプセル株式会社」を設立し、代表取締役社長に就任した。 |
![]() 昭和61年(1986年)4月、富士宮市下柚野に芝川工場を新設し、錠剤など受託製造品目を拡大していった。順太郎は自身の生まれ故郷であるこの地に念願の錦を飾ることとなった。 |
![]() 順太郎のこころざし |
そして、順太郎のこころざしは、先代の望月弘之社長、そして現 望月陽介社長へ引き継がれていく。 |