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東洋カプセル株式会社 創業者 望月順太郎のあゆみ

 東洋カプセル株式会社の創業者、望月順太郎は明治42年(1909年)2月11日、静岡県富士郡下柚野(現 富士宮市下柚野)に生まれた。家業の農家を継いだが、その後、縁あって富士宮市の材木屋に勤務することとなった。

 太平洋戦争のさなか、順太郎35歳の昭和19年(1944年)に軍隊に召集され、中国へ出征し、上海海軍特別陸戦隊勤務となった。
 終戦後は昭和21年(1946年)まで上海浦東で抑留された後に帰国し、敗戦後の貧しい中を生き抜くために人知れぬ努力の末、山梨を中心に森林業を営んだ。

 昭和26年(1951年)、JR東海「身延線」の前身である「富士身延鉄道」が全線開通した。これに伴い、順太郎は生まれ故郷である静岡県富士宮市に「陽泉パルプ工業株式会社」を設立。さらに、信州や甲州のパルプ用材の仕入れ確保のため、長野県北巨摩郡日野春村長坂で「住吉旅館」を営みながら、同県富士見町に「陽泉パルプ工業株式会社」の出張所を開設し、パルプ原料となる用材の仕入れに奔走する日々を送った。以後、昭和39年(1964年)までパルプ工場を経営した。この間、順太郎は富士宮市の市議会議員を務めている。

 
 戦後、日本は飛躍的な経済発展を成し遂げたが、一方で、田子の浦港のヘドロ問題等の様々な負の出来事も小さな街にも押し寄せていた。また、全国的にもさまざま工場から出る公害問題が発生ており、国内パルプ用材の供給も難しくなった時代であったため、順太郎はこうした時代の到来を鑑み、パルプ製造業を廃業した。
 次の事業を考察した末、小資本、少人数で起業でき、受託加工技術で成算があるとして医薬品カプセル事業に着目した。
 昭和43年(1968年)2月、順太郎はパルプ事業当時から勤務していた所縁の方たちを迎え、現在の本社所在地(富士宮市中里東町)に「東洋カプセル株式会社」を設立し、代表取締役社長に就任した。
 
 創業当初は平板法による軟カプセル、エランコ製による硬カプセルの受注製造を行い、昭和50年代初頭には、軟カプセル自動充てん機を導入し24時間製造稼働を開始した。これにより、医薬品の軟カプセルと健康食品を大量生産できる体制を整え、昭和50年代の市況、業界拡大に寄与することとなった。
 昭和61年(1986年)4月、富士宮市下柚野に芝川工場を新設し、錠剤など受託製造品目を拡大していった。順太郎は自身の生まれ故郷であるこの地に念願の錦を飾ることとなった。
 

順太郎のこころざし

・常々酒屋と薬屋は堅業との認識有り。
・青年の頃より志望は実業家。
・農家の長男の生まれ。昔は長男として生まれたら一家の長として特別な存在。
   そのため封建的保守的家父長としての自負をもつ。
・終生一族郎党の面倒をよく見た明治の人。
・晩年、常々「運が良かった」と回顧するも、運を引き寄せるのは時流判断と人徳による
 ところ大。

 
 
そして、順太郎のこころざしは、先代の望月弘之社長、そして現 望月陽介社長へ引き継がれていく。

 

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